日記・コラム・つぶやき

JDがBBQ

JDがBBQ  遅れている僕には何のことか分からなかった! 女子大生がバーベキュー だってだって! ついていけまへんわ・・・。

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GW

カレンダーに目をやるとまだ赤い数字が! 休日には無関係の生活だが、それでもうんざりと思ってしまうのは・・・・!日本の右にならえ的な発想は世界でも珍しいことだ。休日は自分の考えでとる。休みたい人は休む、働きたい人は働く。公共的な仕事はストップしてしまうと困る人が大勢出てきてしまう。そこをうまく工夫していかないとな~。休日を喜ぶ人ばかりではないはずだ。なんでも程々が!!

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ショック

家内の茶道教室に慶應幼稚舎の5年男子が母親とお稽古に来ている。先日親子で京都へ行ったそうだ。子供からお茶道具が欲しいといわれ京都の茶道具屋で抹茶茶碗と茶筅などを買って戻ったそうだ。昨日は母親からメールが入り「息子がお茶碗を割ってしまった」という「どうしたらいいでしょうかと」というのだ。僕は「一応持ってくるように」と言いなと・・・メールの内容からかなり細かく割れたようだから修理は無理だと思うが、子供ががっかりしてショックで落ち込んでいなければよいのにと思った。多分テーブルから床に落としたんだろうと思うが子供だからショックだよな。母親は高価なものではないと言っていたが・・・・。「悠さんこれつないでよって持ってこなければいいのだが」

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TSUU

TSUUにもずいぶん行ってないな・・・・開店まもなく店の前で髭の店長に声を掛けられたのが縁だった。あの雰囲気が好きだったが事情で遠のいてしまった。

最初の思い出はこれだった。8年前カウンター付近に美しい人がいたが遠目にちらっと見ただけだった。勇気ある生徒はスケッチブックにサインをもらって目じりを下げていた。

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4年前にある雑誌に載せるので取材を受けたがフリーライターD氏の文です。経緯があって載らなかったが見つかったので掲載します。

2015年7月8日に取材された鎌倉の「藤森水彩画教室」の紹介文です。

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 絵に呼ばれた、ということなのだろう。横浜や鎌倉で水彩画教室を開いている藤森悠二先生のことである。

「小学校の時から絵が得意で、絵だけは通信簿が良かったんです。他はみんな1や2ばかりでした」。

 

 では「絵が好きだったのか」というとそういう訳でもなく、好き嫌いを意識したことはなかった。只々夢中になって描いていた。特別努力した訳でもない。将来画家になろうと思っていた訳でもなかった。

 

 出身地は東京の上野桜木。自宅のそばに東京芸大東京都美術館があるという恵まれた環境で育った。美術館の周りには絵かきがゴロゴロしていて、絵画展も頻繁に行われていた。高校にあがると絵を意識するようになり、スケッチなどをしながら自然と絵の道に足を踏み入れていった。しかし美大を目指すことはなく、千葉商科大学に入学。銀行に2年勤めた。

 

 転機となったのは、1972年。25歳のときだ。リュックを背負って海外放浪に出ていた友人から「海外はいいよ」と聞かされたことに触発され、「じゃあ俺も」とパリに出かけたのだ。絵描きはみんなパリに行く。もしこのときパリに行かなかったら、藤森先生は画家にはならなかったかもしれない。

 

 当時は1ドル360円時代で所持金は50万円だった。せっかく着いたパリだったが、物価が高く、遊学は無理と判断。3ヶ月でスペインのマドリッドに移動した。パリとマドリッドでは物価に相当な開きがあり、1,000円あれば3食食べて宿泊費も払えたのだ。先生はこの町の「ベジャスアルテス・サンフェルナンド美術学校」に聴講生として潜り込んだ。学生証を発行してもらい、授業料はその都度支払った。学生はヨーロッパ中から集まっており、日本人も6人くらいいた。そこで来る日も来る日も1年間ひたすらデッサンをつづけ、腕を磨いた。そうして所持金が底をついたので日本に帰ってきた。

 

 帰国後、実家からそれほど遠くない文京区千駄木の団子坂の上にある額縁屋で職を見つけた。2階が作業場で、1階には絵が飾られていた。その1階にパリで描いた油彩画を掛けてもらったところ、出入り業者だった千葉の画廊が買い取ってくれた。しかも「また描いてくれ」と注文まで入ったのだ。

 

 画料は安かったが、売れたので描きまくった。絵が知られるようになるにつれ、高値で買い取ってくれる業者も現れた。活躍の場が広がっていった。

 

 筆者は鎌倉駅前の教室でお話を伺っている。背後では10人ほど集まった生徒さんたちが、画用紙に筆を走らせながら聞き耳をたてている。私が水を向けると、生徒さんたちは口々に先生の人柄について話し出した。

 

「芸術家は気難しいイメージがありますけど、この先生はそうじゃないんですよ」
「人一倍純粋で、シャイで、きっと私達が気づかないところで神経を使っていると思うんです」
「スペイン時代のモデルのジョアンナの話をしたらどうですか?」
非常に慕われているのだ。

 

 そもそもこの教室は、横浜そごうで水彩画の展示と実演の依頼があり、そこに来ていたお客さんたちから絵の指導を請われたことがきっかけで始まったのだった。

 

「35歳から50歳まで那須にアトリエを構えていたんです。そこでずっと風景画を描いていました。ところがバブルが弾けて絵が売れなくなってしまって。横浜そごうで教室の話が出たのは、ちょうどそのタイミングでした」。

 

 最初のうちは那須と横浜の往復で収支はトントンだった。やがて教室を増やし、拠点を横浜に移してからは生徒も100名くらいに増え、生計が立てられるようになった。

 

 現在教室は鎌倉、大船、上永谷横浜市港南区)の3教室で月に13コマ教えている。鎌倉教室は月2回。1コマ2時間だ。前半が教室で風景画の模写。後半が横浜や鎌倉でのスケッチである。寒さや暑さが厳しい1、2、8、12月は戸外でのスケッチは行わない。

 

「教室の居心地がいいんですよ。宿題をしてこなくても怒られないし」と初老の女性が笑いながら言う。

 

 宿題というのは模写のことだ。次のレッスン日までに家で1枚先生の絵の模写を仕上げなければならないのだ。スケッチの場合、彩色まで含めて2時間あれば1枚仕上げることができるが、模写となると手間がかかる。3、4時間かかるのもザラだという。前半の授業は模写だから手間がかかる。時間内には終わらないから各自のペースで進めていくことになる。

 

 教室は今年で17年目だそうだが、一番長い生徒は開講当初から通っているという。10年以上通っている生徒さんも多いが、小学校以来はじめて絵筆を持つという人も多い。
「やめた人も含めて200人くらい見てきましたね」と藤森先生。

 

 クラスが終わった後は必ず近くの喫茶店でお茶の時間となり、余興として先生がお得意のマジックを披露してくれる。

 

那須の頃のように、もう一度絵の制作を充実させたいと思っているんです」。

 

 結局、この教室の生徒たちは先生の熱心なファンなのである。藤森先生がもう一度創作に打ち込む日が来ても、きっと支えてくれるのではないだろうか。絵に呼ばれて画業に生きた先生は、とても幸せな人生を送っていると思う。

以上です。

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悪漢探偵

子供の頃の遊びで「悪漢探偵」と言うので遊んでいたが、その後は「ドロケイ」と名称が変わったようだ。どうも内容は同じだが戦前と戦後世代では違うようだ!
悪漢探偵 明智探偵と二十面相、月光仮面の世代です。

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失敗作 ×


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これは失敗作。見るからに救いようがない・・・! 城は自分には向かないモチーフなんでしょうね。筆が進まないとはこのことだ。久しぶりの失敗作というよりここでやめて、気持ちを切り替えて別の絵に行こう。

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夜の蝶

台風が行ってまた暑さが戻って来た。
今日は風呂屋さんのカルチャー。
講座が終わってコーヒーを飲みながらマジック。
青い蝶が現れたらNさんが嬉しそうに「先生!夜の蝶は出ないんですか?」
「それは・・・出ないな。夜出るのは蛾でしょう!毒蛾」

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鉛筆

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鉛筆Hは硬さハード Bは黒さ ブラック
決まりは無いが字を書くにはHB 製図にはH 絵画にはBが適している。

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シャッター

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いつだったろうか・・・砂浜でスケッチしていた。指導も中頃生徒の写真を撮ろうとカメラを構えていたら「先生・・・・」と後ろで声がする。僕の事かと振り返ると JKが変なポーズをとっている。なんだ僕じゃないのかと ついでにシャッターを押した。
そして生徒達に「後ろ見てみな」振り返った生徒が「若いわね~先生!」「・・・・・」

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